交通安全コラム
地上最高速の争い(23)―英国人の不屈の挑戦(3)―
- Date:
- 2018/08/15
- Author:
- 佐野彰一(元東京電機大学教授)
前回は、祖国に速度記録の名誉をもたらそうと奮闘した英国人チャールズ・ロールスの努力を、新興勢力の台頭を交えて解説した。
今回は、フランス自動車クラブの妨害と巨大エンジンのライバルとの、彼の苦闘を紹介する。
◆3度目の挑戦
ロールスの二度目の挑戦の結果は新記録ではあったが、計時方法を理由にフランス自動車クラブがまたもや記録を承認しなかった。そのあと、フランスで製作された排気量13500cc 110馬力の巨大エンジンを載せたゴブロン・ブリリィ車で、ベルギー人のアーサー・デユレイによって大幅に記録が更新され、それが公認されてしまった。しかし、ロールスはそれにひるまず、なんとかして英国のために速度記録を達成しようと、気力をふるい立てた。
◆記録更新
ロールスが行った三度目の試みでも、以前と同じモール車を使用したので、これは、ゴブロン・ブリリィの挑戦に対するモール社の回答ともなるものだった。法律に妨げられない英国の私道で、彼は、デユレイの持つ公認記録の1キロ26.8秒より速い、26.4秒の時速84.73マイルの最高タイムを記録した。この走行は、英国とアイルランドの自動車クラブによって公式に計時されていた。
◆再び公認拒否
それにもかかわらず、パリのフランス自動車クラブは、英国の計測方法が承認されていないという理由で、ロールスのこの記録を世界記録として公認しなかった。
しかし、デユレイは、内心、ロールスの勝利を認めていたようだ。というのは、1か月以内に、彼が、確かにロールスよりも速いことを証明しようと、走行を試みているからだ。
◆デユレイのリベンジ
1903年11月5日にフランスの公認コースで行われたデユレイの走行は、本当の勝利者は誰なのかをモール社に見せつけるために、ゴブロン・ブリリィ社が初めてバックアップした走行だった。
ところが、皮肉なことに、デユレイのタイムは、ロールスのタイムとまったく同じだった。違いは、それが世界記録として公認されたということだった(図)。フランス自動車クラブの承認した条件のもとでフランスで行われ、英国でのロールスの記録はそうではなかった、というのがその理由だった。
今回は、祖国に速度記録の名誉をもたらそうと奮闘を続ける英国人の不屈の努力を、新興勢力の台頭を交えて解説した。
次回は、ロールスのパートナーとなる、もう一人の偉大な英国人の業績を紹介しながら、その後のロールスの足跡をたどりたい。