交通安全コラム

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地上最高速の争い(24)―英国人の不屈の挑戦(4)―

前回は、祖国に速度記録の名誉をもたらそうと奮闘を続ける英国人チャールズ・ロールスの不屈の努力を、新興勢力の台頭を交えて解説した。
今回は、彼のパートナーとなる、もう一人の偉大な英国人を紹介しよう。

◆大英自動車クラブ
ロールスが18歳でプジョー車を手に入れ、フランス自動車クラブに加入したことは、すでに紹介したが、彼は、英国でも大英自動車クラブの設立発起人の一人となり、クラブは1897年から活動を始めている。そのクラブのメンバーの一人が、のちに、彼のために運命的な出会いを用意することになる。

◆英国最古の自動車デーラー
ロールスは、1903年に父の援助で自動車の販売事業を始めている。彼の店は英国で最も古いデーラーの一つに数えられ、当時は、英国には適当なクルマがなかったため、やむなくフランスからプジョー、ベルギーからミネルバを輸入して扱っていた。彼は、品質の良い国産車を求めていた。

◆もう一人の英国人
 英国人ヘンリー・ロイス(図)は、貴族の家系に生まれたロールスとは異なり、貧しい家庭に生まれ、幼くして父を失い、9歳で働き始めている。学校へは行かず、鉄道や工場の見習工から、苦労してリバプール市の街路灯計画の電気主任技師にはい上がった。
彼は、1882年電動クレーンや発電機などを扱う会社を設立し、その後、電気機器を製造していたが、安い海外メーカー品との競争に直面し、自動車用電気部品の将来性に着目する。

ヘンリー・ロイス

◆完全主義者
ロイスは中古のフランス車を入手したが、それは振動、騒音がひどく、エンジンは非力で、変速機の操作性も悪かった。これに我慢ができず、気化器と点火装置を作り直し、この部品を自動車会社に売ろうと思ったが、完全主義者だったロイスは、自分が納得できるクルマを自分で設計して製造しよう、と考えるようになる。

◆運命の出会い
ロイスが設計したクルマの試験走行は1904年に行なわれた。エンジンには、先進的な霧吹き式の気化器と点火時期を調整できる点火装置が使われていたので、性能は格段に優れていた。
ロールスが良い国産車を探していることを知っていた大英自動車クラブのメンバーであるロイスの協力者は、このクルマの出来栄えを見て、ロイスをロールスに引き合わせることにした。

今回は、ロールスのパートナーとなる、もう一人の偉大な英国人の経歴と業績を紹介した。
次回は、のちに英国の誇りとなる高品質のクルマ誕生のきっかけとなる二人の出会いと悲劇をお伝えする。

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