交通安全コラム
第201回 地上最高速の争い(35)―新たな舞台と大馬力車の挑戦―
- Date:
- 2019/08/15
- Author:
- 佐野彰一(元東京電機大学教授)
前回は、T型フォードの盛衰を振り返ってから、フロリダの新しい舞台を紹介した。
今回は、そこでの大富豪への挑戦と、ヨーロッパに戻り、大馬力車での新記録を紹介する。
◆オーモンド・デイトナ海岸
数々の公認世界記録が生まれることになる新しい舞台、フロリダのオーモンド・デイトナ海岸の誕生には、次のような経緯があった。フォードが目の敵にすることになる自動車会社の経営者ウィントンと、フォードに先んじて廉価車、“カーブド・ダッシュ”(図1)を生産したランサム・オールズが、一緒にこの地のホテルを訪れた時、その平坦で長い砂浜に着目して、自分達のクルマを持ち込んで競い合った(図2)。その後紆余曲折はあったが、このホテルのオーナーが集客のために奔走し、1902年からこの海岸でスピード・トーナメントが開催されるようになった。
◆ゴブロン・ブリリィの挑戦
第3回スピード・トーナメントでは、フォードの“999”を運転して優勝した、あのバーニー・オールドフィールドが“ウィントン弾丸3”号を駆って大富豪バンダービルトの記録を破るべく、二日に亘って挑戦したが記録を破ることはできなかった。ここで舞台はふたたびヨーロッパに戻る。
長らく世界一に君臨していたモールから記録を奪って意気上がるゴブロン・ブリリィ社は、今度は、バンダービルトの記録への挑戦を決定した。最初の機会は、1904年3月31日のニースでの恒例のスピードイベントだった。
◆130馬力車
ゴブロンは、出力を130馬力に高めた新たなクルマを用意し(図3)、トップドライバーのルイ・リゴリィに運転させた。彼は痩せた筋肉質で、リーダーとなる天性を備えていた。さらに、ゴブロンは念を入れて、元の100馬力車も送り、二度も速度記録を破ったアーサー・デュレイに運転させた。彼は、幾分のんき者だったが闘争心があり、リゴリィと競うことにひるまなかった。
◆100馬力と130馬力の対決
ゴブロンの二台は、素早くトップに立ち、二人の争いとなった。停止から1マイルの競技で、エンジンパワーで劣るデュレイが、リゴリイと同タイムを出して戦いは熱を帯びた。ロスチャイルド杯のかかった、助走後の1キロ競技でも、デュレイが馬力のハンディを跳ね返して、25.2秒のトップタイムを叩き出した。
リゴリイは、彼のクルマの馬力を生かすには十分な加速が必要なことを理解し、計測区間前の助走を長くとった。それが功を奏して、同僚を1.6秒差で破った。タイムは23.6秒で、時速94.78マイルの新記録であった。
今回は、米国の新しい舞台と、欧州に戻り時速100マイルに迫る新記録までを解説した。
次回は、ベルギーのカタール男爵のリゴリイの記録への挑戦と、男爵のその後を紹介する。