交通安全コラム
第204回 地上最高速の争い(38)―時速100マイルをめぐる争い(3)―
- Date:
- 2019/11/15
- Author:
- 佐野彰一(元東京電機大学教授)
前回は、ゴブロン社の男爵への報復の企てと、突如現れた強敵、ダラック社を紹介した。
今回は、ダラック社とゴブロン社の争いと100マイル達成、英国からの侵略者を紹介する。
◆0.4秒差で返り討ち
競技は、停止から1マイルのタイムを争う加速競技で始まり、バラスが即座に優勝を決め、進新のダラックがゴブロンを破った。ところが、助走後1キロの最高速競技では、ゴブロンのリゴリイが、逆に0.4秒差でダラックのバラスの挑戦を退けた。タイムは21.6秒で、時速103.55マイルの新記録だった。
リゴリイは自動車の歴史に大きな足跡を残した。
◆ダラックのリベンジ
バラスのボスであるアレクサンドル・ダラックは、屈指の頑固な経営者だったので、ゴブロン社に売上を取られてなるものか、と心に誓った。1904年11月13日、バラスが、約4カ月前にリゴリイに苦杯をなめさせられたベルギーのストレートに戻ってきた。そこで、彼は、同じ100馬力ダラックで、即座に、リゴリイのタイムを0.2秒短縮した。助走後1キロの公式記録は時速104.52マイルで、バラスとダラック社はゴブロンへのリベンジに成功した。
◆英国の侵略
この頃、大陸の自動車競技では、新しい侵略者の英国が存在感を高めていた。その評価は大部分がネーピアによって作られていた。ネーピアの経営者、モンターギュ・ネーピア(図1)は、印刷機械や精密機械を製造する家系の跡継ぎだった。ある時、彼は、趣味で始めた自転車競技で知り合った友人から、1896年のパリ-マルセイユ-パリのレースで優勝したパナール車の改良を頼まれた。
◆ネーピア社
しかし、ネーピアは、パナールの熱管点火のエンジンに満足せず、電気点火の2気筒エンジンを設計して、それと交換することを提案した。これに感心した友人は、ネーピアに自動車の製造を勧めて、それを販売する会社を知人と共同で設立する。最初の注文は、2気筒8馬力と4気筒16馬力が各3台で、アルミ合金の車体、チエンドライブだった。これらは、1900年3月に納入された(図2)。
◆競技への進出
その友人は、競技の宣伝効果に着目し、国内の1000マイルトライアルに8馬力車でエントリーし、自分の運転でクラス優勝をする。6月には、海峡を越えてパリ-ツールーズ-パリのレースに、ロールス・ロイス社を誕生させて夭折した、あのチャールズ・ロールスをメカニックとして同乗させて16馬力車で参戦したが、トラブルで完走はできなかった。
今回は、フランスのゴブロン社と進新ダラック社との争いと、記録挑戦を準備する英国ネーピア社の動きを紹介した。
次回は、ネーピア社の挑戦と、それを迎える米国勢の反撃を紹介する。