交通安全コラム
第207回 地上最高速の争い(41)―時速100マイルを超える争い(3)―
- Date:
- 2020/02/15
- Author:
- 佐野彰一(元東京電機大学教授)
前回は、米国人富豪の大馬力車と英国ネーピア車との争いとその意外な結果を紹介した。
今回は、フランスのダラック社の軽量・大馬力車による復讐と米国の蒸気エンジン開発者を紹介する。
◆フランスの覇権
高出力の新しいダラック車の性能は予想通りだった。当時のグランプリレースで名を挙げていたビクトル・エメリー(図1)が、1905年の暮に、このクルマを駆って1キロ区間で時速109.65マイルを記録した。
この新しいクルマの初走行では、4回の走行すべてがそれまでの公認記録を破るもので、ベストタイムが20.4秒だった。
12月30日のこのエメリーの記録は、フランスの道路で、承認された条件のもとで達成されたので、パリの国際機構から公認され、フランスが世界記録を更新した。
◆スタンレー兄弟
このフランスの覇権を、米国、ドイツ、英国が奪い返す準備を進める中で、フランス人セルポレの蒸気エンジンによる1902年の世界記録につづいて、独創的な技術と発想の蒸気自動車で、ガソリン車から世界記録を奪い取ることになる米国の双子の兄弟が現れた。
フランシス・スタンレーとフリーラン・スタンレー(図2)は、バイオリンも製作したが、写真の乾板の特許で会社を興した。
フランシスは発明の才があり、フリーランは経営センスがあり、二人は互いに欠くことのできないパートナーとして、写真用品の製造を行っていた。
◆運命の草レース
1896年5月の戦没兵士記念日に、二人は、郡の品評会で余興の草レースを目にしたが、設計がフランスのガソリン車の走りっぷりは、二人を感心させるには程遠いものだった。その帰り道、フランシスが「俺達で、もっとまともなやつを作ってみようか」とフリーランに話しかけた。翌年には、チエンドライブの小さな蒸気車を作り、二人は付近の道路を走り回っていた。さらにもう1台作り、彼らは、次第にクルマづくりに夢中になっていった。趣味が高じて、ついに、彼らはそのクルマで草レースに参加することになる。
◆自動車製造
ところが、レースで1マイルを2分強(時速28マイル)の高速で走ったことが注目の的となり、これが、スタンレーの名前とクルマの性能をマサチューセッツ州全域に広めることになった。ここに至って、二人は自動車業界への参入を真剣に考えるようになり、乾板の特許をコダック社に売り払って、クルマづくりに転向する。
今回は、フランスのダラック社の軽量・大馬力車による復讐と米国の蒸気エンジン開発者を紹介した。
次回は、当時の蒸気自動車の動向と、スタンレー兄弟のクルマとの出会いを紹介する。