交通安全コラム

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第209回 地上最高速の争い(43)―スタンレー兄弟の蒸気自動車(2)―

前回は、当時の蒸気自動車の動向と、スタンレー兄弟の製造権の売渡しまでを紹介した。
今回は、兄弟の心変わりによってふたたび製造することになった蒸気車の概要を紹介する。

◆兄弟の翻意
兄弟が自動車事業を手放した直後の8月、フリーラン・スタンレーが、自分達の蒸気車で、夫人を伴ってリゾート地に旅行した際、クルマでワシントン山に初めて登った。ガソリン車の初登山が3年後の1902年であったから、この快挙は、スタンレーの蒸気車の名声をさらに高めることになる。
それで、兄弟は心変わりし、ふたたび蒸気車ビジネスに戻る決心をする。ロコモービル会社との間に紛争を引き起こすが、紆余曲折ののち、ロコモービル社もスタンレー兄弟も、ともに蒸気自動車ビジネスを続ける条件で決着する。

◆年間売上400台
1901年の末に、スタンレー兄弟は、蒸気車からガソリン車に転向することを決めたロコモービル社から、工場を格安の2万ドルで買い戻し、クルマづくりを再開する。
彼らは、ライバルの先を行く、大幅に進んだ蒸気車を作るアイデアを持っていた。エンジンを前から後に移し、デッキの下に水平に搭載し、駆動チエンを省いて、エンジンから歯車で直接後車軸を駆動し、駆動歯車とディファレンシャルを油密ケースで封入した。4.5馬力の1902年モデル(図1)は、2人の大人と2人の子供を乗せ、何のストレスもなく時速35マイルで走ることができ、丸一年で400台を売り上げた。

図1 1902年モデルの4.5馬力スタンレー車

◆公道レース
スタンレー兄弟はチューニングして性能を高めた自家用車で、ボストン郊外の道路でレースを楽しんだ。それを追いかける警官は、兄弟のどちらなのかがわからず困惑したと伝えられている。
この小さなクルマを、3年間で1500台作ったが、彼らのスピード志向と名声を維持する必要から、レースやヒルクライムで有利な、大きくパワーフルなクルマを作るようになる。会社を存続させるために、彼らにとっては競技での活躍は不可欠だった。

◆スタンレー社の健闘
フランシス・スタンレーは1903年に初めて特製のレース車両を作った。“タートル(海亀)”あるいは“トーピード(魚雷)”とも呼ばれる流線型のレース車(図2)は、ボストン近郊のレーストラックで記録を作った。

図2 1903年のスタンレーの初めてのレース車“タートル”

スタンレー兄弟の同僚で近隣の住民だったルイス・ロスが、その年、スタンレーの量産車をオーモンド・デイトナ海岸に持ち込み、幾つかの蒸気車の記録を塗り替えた。一方、フランシス・スタンレーは、ワシントン山のヒルクライムに集中したが、1904年、1905年とも、わずかな差で2位だった。

今回は、兄弟の心変わりによってふたたび製造することになった蒸気車の概要を紹介した。
次回は、兄弟が支援して同僚が開発した蒸気車のレースでの活躍を紹介する。

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