交通安全コラム

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第214回 地上最高速の争い(48)―スタンレー兄弟の蒸気自動車(7)―

前回は、蒸気いじめと、それにめげず、さらに記録を高めるレーサーの改良を紹介した。今回は、悲劇に終わった1907年のスタンレーチームの挑戦と事故の顛末を紹介する。

◆新ロケット号
1907年1月26日、恒例のスピードミーティングは、アメリカのクルマも、ヨーロッパのクルマも、競争相手になるようなものは、ほとんど見当たらなかった。それは、アメリカ自動車工業会が、スタンレーの偉業に、確かな根拠を与えないように、ひそかに、そのレースのボイコットを画策した結果であった。
事情を知らない観衆は、「はたして、スタンレーは、ガソリンのライバル車に対する優位を保てるだろうか、記録を更新できるだろうか」と話し合っていた。しかし、ドライバーのフレッド・マリオットは、何の疑いも抱かなかった。冬の間、スタンレー兄弟と、一生懸命改良した新しいロケット号に絶大な信頼を寄せていた。

◆砂のさざ波
正午直後、マリオットは、新ロケットをスタート地点まで走らせた。午前中の強い東風が作った砂のさざ波を通過する際、木製の車体がきわめて激しく振動するのを感じた。東風は依然として吹いていたが、蒸気のガソリンに対する比較にならない優位性を示そうとする彼の熱意には、少しも影響を及ぼさなかった。彼は、蒸気圧を1300ポンド(約90気圧)にセットした。(この蒸気圧は、我が国最後の幹線用蒸気機関車であるC62(図1)の蒸気圧約16気圧と比べれば、いかに高いものかが理解できる。)

図 1 我が国最後の蒸気機関車C62

◆長距離飛翔
いつものようにヘッドギヤを着けないマリオット(図2)は、ゴッグルを下ろし、計測区間に向かう9マイルの走行へ、スロットルを全開にした。クルマは信じられない速度で突進し、ヒューという音を残して、黄金色の砂の上を真紅の点となって瞬く間に消失した。そのあと、クルマは、波長の長い凹凸が続く区間に遭遇した。間もなく、クルマは、四つの車輪が地上を離れて飛び上がってしまい、100フィート(約30m)空中を飛んだ。飛翔のきっかけは、引き潮が作った幅6~7フィート(約2m)、深さ約1インチ(2.5cm)の2条の窪みだった。

図 2 1907年走行前のフレッド・マリオット

◆時速190マイル
傾きながら落下したため、着地してから何回も転がり、車体は前後に分離し、ボイラーが外へ投げ飛ばされた(図3)。この事故について、のちのインタビューで、マリオットは次のように回顧している。「最初の窪みは、難なくやり過ごし、それまでにない速さで走った。マサチューセッツ工科大学の二人の教授が、計測装置を1/2マイルの地点にセットしており、自分が時速190マイルまであとほんの僅かの速度で走っていたと、あとで、教えてくれた。」

図 3 1907年のスタンレー・新ロケット号の事故の残骸

今回は、悲劇に終わった1907年のスタンレーチームの挑戦と事故を紹介した。
次回は、マリオットの事故の回顧の続きと負傷、クルマのレイアウトの弱点を紹介する。

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