交通安全コラム

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第216回 地上最高速の争い(50)―スタンレー兄弟の蒸気自動車(9)―

前回は、マリオットの事故の回顧の続きと負傷、クルマのレイアウトの弱点を紹介した。
今回は、蒸気車の衰退とその後のスタンレー社の蒸気車での奮闘を見ていく。

◆速度記録からの撤退
負傷したマリオットは、さらに優れたレーサーを作って競技に復帰することを誓い、回復後、それを熱心に主張した。しかし、それは受け入れられなかった。オーモンド・デイトナ海岸でのレース規則が、短距離で蒸気自動車を除外するように変えられた。また、スタンレー兄弟は、マリオットが工場にとって重要な人物だったので、これ以上危険に曝したくはないと判断して、速度記録挑戦から手を引くことにした。

◆ボイラーの爆発説
当時、蒸気自動車は、国中でガソリン自動車を圧倒していた。クラッチや変速機が不要で構造がシンプル、運転が容易で、しかもガソリン車より速く走った。
そこで、ガソリン車メーカーは、その劣勢を覆そうと、蒸気車はいかなる速度でも危険であると主張していた。そのため、マリオットのクラッシュが新聞で報じられると、原因はボイラーの爆発であると誤って信じられるようになった。爆発で周囲数マイル以内の家の窓ガラスが割れたという、まことしやかな話まで語られた。スタンレー兄弟がレース撤退を表明したことで、それらの噂は真実味を帯びてしまった。

◆蒸気自動車の衰退
ところが、1908年は、スタンレー社が最も利益を上げた年になった。大部分がエコノミーモデルの2~4人乗りであったが、年間800台の蒸気車を生産した。スムーズさと静かさでライバルよりはるかに先を行っていたので、生産能力を上回る注文を抱えていた。
しかし、蒸気自動車産業は盛りを過ぎようとしていた。1909年のある日、フランシス・スタンレーは帰宅して、「マサチューセッツ州でガソリン車の登録がスタンレーの蒸気車よりも増えた」と妻に語っている。

◆スタンレー社の奮闘
しかし、スタンレー社の業績は下り坂ではなかった。1910年から1914年の間に、ガソリン自動車が何年もあとになって発揮する強力で活気のある走りを、先取りして実現したからである。しかし、フレームは木製で、真鍮のガスランプを付けていた。この時期には、売るクルマがないデーラーも現れるほどで、1914年末までに8000台のスタンレー車が製造された。スタンレー社では、1923年まで蒸気車が製造されていたが、特に、速度記録車のパワープラントを使った“マウンテンワゴン”(図)は傑作である。

1912年のスタンレー・マウンテンワゴン 

今回は、蒸気車の衰退とその後のスタンレー社の蒸気車での奮闘を紹介した。
次回は、スタンレー社を消滅させた蒸気自動車の欠点を確認する。

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