交通安全コラム
第218回 地上最高速の争い(52)―カーチスのデビュー―
- Date:
- 2020/10/01
- Author:
- 佐野彰一(元東京電機大学教授)
前回は、スタンレー社を消滅させた蒸気自動車の欠点を確認した。
今回は、蒸気車の消滅と、後に大富豪となるカーチスのオートバイによる快挙を紹介する。
◆スタンレー社の消滅
フランシス・スタンレーは、60歳台の後半になっても、速いドライバーで、住まいと夏の避暑地との間を記録的な速さで走っていた。1918年、農作業車を避けようとして転覆して即死した。兄弟の死で、フリーラン・スタンレーは会社の株を売り払い、バイオリンの製作に戻った。会社はその後6年間存続した。彼は生涯の大部分の夏を避暑地で過ごし、1940年に91歳で天寿を全うした。
◆未来の航空界の大物
1907年のオーモンド・デイトナ海岸での注目すべき出来事は、スタンレー車の事故だけではなかった。のちに航空機の歴史に大きな足跡を残す若者、グレン・カーチスの華々しいデビューがあった(図1)。
カーチスは、1878年ニューヨークに生まれ、幼くして機械と工夫を好み、写真乾板とフィルムの製造会社で働き始めた。その後、自転車レーサーを経て自転車店を経営するが、1902年に自身で単気筒のガソリンエンジンを開発して、オートバイの製造を始めた。
◆事故を目撃
1907年のスピードミーティングに、カーチスは40馬力のV8エンジンを積んだオートバイ(図2)を持ち込んでいた。彼は、スタンレー車の事故を目撃したが、計時装置が使えるうちに速度記録に挑戦したいと申し出て、オフィシャルを驚かせた。彼のオートバイ製造事業は資金が枯渇し、支援を得るためには、速度記録を達成することが唯一の手段だった。
◆ライバルは弾丸
V8エンジンが唸りを上げて、猛烈な加速で計測区間に向かって突進していった。時速136.3マイルの世界記録だった。シカゴ・デーリー・ニュース紙は「地上最速!グレン・カーチスのライバルは弾丸だけ」という見出しで、この快挙を報じた。オートバイであるため非公認記録であるが、この世界記録を生み出したエンジンが彼の会社を世界的に有名にし、彼に巨万の富をもたらすことになる。
◆海軍航空の父
電話の発明者として知られ、航空界のパイオニアでもあったグラハム・ベルは、カーチスに、彼の航空実験協会に加入することを勧めた。記録達成の18カ月後、カーチスは同じエンジンで、西半球で初めての公式飛行を行った(図3)。彼は、米国初の航空免許を取得し、ヨーロッパの各地のエアレースで優勝している。その後、彼の関心は飛行艇に移り、1930年に52歳で世を去る時には、彼は、海軍航空の父、アメリカ大富豪の一人、と呼ばれる栄誉に輝いた。
今回は、蒸気車の消滅と、後に大富豪となるカーチスのオートバイによる快挙を紹介した。
次回は、完成車でベンツ社に後れを取ったダイムラー社のメルセデスの誕生を紹介する。