交通安全コラム

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第222回 地上最高速の争い(56)―ベンツ社の挑戦(3)―

前回は、200馬力ベンツの弱点と、性能を発揮できる舞台での成果を紹介した。
今回は、蒸気車の非公認記録を破るため有利な、合衆国での挑戦の準備を紹介する。

◆周回コースの制約
誕生間もない英国の世界初のレースサーキット、ブルックランズで、ビクトル・エメリーが、200馬力ベンツでフライングスタート1キロを時速125.95マイルで走り切った。これは、マリオットの蒸気車による公認記録を上回るため、世界記録として公認されたものの、マリオットの非公認記録である時速127.66マイルには及ばなかった。200馬力ベンツは、周回コースであることが制約となって、持てる力を十分に発揮できなかった。

◆一時代の終わり
しかし、エメリーのこの記録は、最高速度記録の一時代を画するものとなった。その理由は、これが一方向の走行のみで計測された最後の記録になったからである。
1910年、国際機構は、同一計測区間の二つの方向の走りの平均だけが、フライング1キロ、あるいは1マイルの新記録として国際的に公認される、という規則の改定をおこなった。

◆大西洋を越える
200馬力ベンツが実力を発揮するには、計測区間に入る前に最高速に達することができる長い直線コースがあることが望ましい。アメリカのフロリダ州オーモンド・デイトナ海岸の砂浜は好適地である。輸出先の市場である合衆国での、記録達成車の更なる成功はビジネスにも好都合である。これに気付いたベンツ社は、即座に大西洋を越える決断をした。そこで、マンハイム周辺での一連の試走を済ませて、クルマは、ボデーを新しくして、1910年1月米国に出荷された。

◆ライトニングベンツ
 ニューヨーク地区のインポーターがクルマを受け取った後、イベントマネージャーのエミー・モロスが、その200馬力ベンツと、彼の150馬力のグランプリベンツに6000ドルを上乗せして、交換するという取引を申し出た。そして、このビジネスマンは、これは稲妻のように速いクルマだからと、“ライトニングベンツ”と名付け、それを新しい買い物にペンキで書いた。モロスのドライバーは、あのバーニー・オールドフィールドだった(図)。
オールドフィールドは、ヘンリー・フォードが先行するメーカーに挑戦するため、ドライバーとして雇ったことが契機になり、職業競輪選手からレーシングドライバーに転身していた。

図1

今回は、蒸気車の非公認記録を破るため、助走に有利な合衆国での挑戦の準備を紹介した。
次回は、フロリダ州オーモンド・デイトナ海岸での記録挑戦の首尾をお伝えする。

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