交通安全コラム

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第225回 地上最高速の争い(59)―ホワイトエレファント(1)―

前回は、ベンツの米国人ドライバーでの再挑戦とイタリアからの挑戦者の出現を紹介した。
今回は、フィアットによるイタリアからのベンツへの挑戦の経過を報告する。

◆降りたトップドライバー
 ロンドンのフィアットの代理店主は、このTipo S76(図1)が実力を発揮すれば大きな宣伝効果が得られると考えて、英国のレースミーティングへの出場を計画して、1911年に、クルマとドライバーの派遣を要請した。彼は、当時フィアットで最も人気のあるトップドライバーで、1907年のフランスブランプリで優勝しているフェリーチェ・ナッツァロが来て、この挑戦車に乗るものと期待していた。ところが、来たのは別人のドライバー、ボルディーノだった。

図1

◆偏った重量配分
前回紹介した「フィアットは、何をしたいかのかわっていない」という、このクルマへの厳しい評価の主はナッツァロだったので、彼は派遣を拒否したものと思われる。
エメリーの公認世界記録を破る、との前宣伝だったが、ボルディーノのドライビングは冴えなかった。このTipo S76は、高速走行で必要な、車体重量の前輪と後輪への均一な配分から大きくかけ離れており、ブルックランズサーキットのバンク(図2)では不安定だった。

図2

◆砂浜に立往生
続く、平坦なソルトバーン海岸では新記録が期待され、一般競技の前に挑戦の機会が与えられた。しかし、エンジンのバルブが故障してコースの終点で立往生してしまった。
天地を震わす大轟音はともかく、排気管から何ヤードも炎を噴出するのは、バルブの開閉時期の設定に問題があったのではないか、と考える人もいる。その巨体を柔らかい砂浜から運び出すのに7時間もかかった。その時の記録は、時速125マイルだった。

◆白い巨象
 次のヨークシャ自動車クラブの競技会には、修理がなんとか間に合ったが、ボルディーノのフライングスタートの記録は時速115.5マイルに留まった。これで、Tipo S76は、大きくて役に立たない“ホワイトエレファント”であることが確からしくなった。しかし、フィアット社は、時速154マイルだったと主張した。
買い手の出現
その後、このクルマを米国のトップレーサーのラルフ・ド・パーマが買う、という噂があったが、それは立ち消えになった。1913年になって引取り手が現れた。ロシアの皇太子のボリス・ソゥカノフである。クルマはモスクワに送られた。

今回は、フィアットの不発に終わったTipo S76によるベンツへの挑戦の経過を紹介した。
次回は、新オーナーロシア皇太子による再挑戦の顛末をお伝えする。

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