交通安全コラム

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第226回 地上最高速の争い(60)―ホワイトエレファント(2)―

前回は、フィアットの不発に終わったTipo S76によるベンツへの挑戦の経過を紹介した。
今回は、新オーナーロシア皇太子による再挑戦の顛末をお伝えする。

◆賢明な皇太子
Tipo S76を手に入れたロシア皇太子のボリス・ソゥカノフは、賢明にも、試乗して即座に、彼の運転技量では、このクルマを速く走らせることは極めて困難であることを悟った。そこで、彼はプロのドライバーを探しにフランスへ行き、そこで1903年にゴブロン・ブリリィ車で2度の世界記録を達成したアーサー・デューレイ(図)と契約し、再びブルックランズで記録に挑戦するため、クルマを英国に送った。

図1

◆停止命令
 走行開始直後に、およそ時速125マイルを記録し、これはブルックランズのコースレコード時速121.77マイルを上回ったが、2ラップで停止を命ぜられた。デューレイがバンクの上端からわずか10センチを余す際どいラインで走行したため、このバンクでは、すでに死亡事故が発生していたから、続行は危険と判断されたのだ。

◆皇太子を説得
この経緯は、デューレイがフィアット社に送った手紙には、次のように書かれている。
「ブルックランズで数ラップすると、死にたくなかったら、このクルマをここで走らせることは間違いだと確信した。皇太子に、英国のこのサーキットが危険なことを知ってもらいたいと、電話をした。彼を同乗させて時速200キロほどで走ったが、2ラップ後に停止命令を受けた。バンクの死亡事故のあった場所で、遠心力で飛び出しそうになった。ブルックランズにこだわった皇太子も危険を認めて、他の場所を探すように指示した。」

◆ベルギーへ
 デューレイは、1908年にエメリーが記録を作ったフランスの道路を提案したが、フランス自動車クラブは、予定にない走行は許可しなかった。そこで、イタリアで探したがだめで、デューレイ自身の記録を含めて、1903年と1904年に2度の世界記録が作られたベルギーのオステンドの道路に白羽の矢が立てられた。

◆不鮮明なテープの記録
 しかし、その走路は巨象には不十分だった。助走距離が取れず、1キロの計測区間の出口でやっと最高速に達する短さだった。時速125マイルを超える走行を14回行い、最速では時速140マイルを超えたと思われたが、テープの記録が不鮮明で、認められなかった。明確に認められた最速の記録は、1913年12月8日の時速132.37マイルだった。

今回は、皇太子に代わる記録保持者デューレイの英国とベルギーでの挑戦を紹介した。
次回は、フィアットTipo S76の問題点、ベンツよる記録更新、大戦の勃発を紹介する。

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