交通安全コラム

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第228回 地上最高速の争い(62)―記録への米国の挑戦(1)

地上最高速の争い(62)―記録への米国の挑戦(1)

◆行方不明
大戦後、フィアットTipo S76による再度の記録挑戦が検討されたが、ベルギーに残されたスペアパーツは、ドイツ軍に没収されたものか、紛失していた。ロシアの皇太子も革命で死亡したものか、逃れてどこかに落ち延びたものか、フィアット社が世界中を探しても行方はわからなかった。
このクルマは、1925年までフィアット社に保管されていたが、買い手が現れてメキシコに送られた。しかし、その後、行方不明になってしまった。
フィアットが念願の世界記録を獲得するのは、1924年までの10年の月日を待たねばならなかった。

◆大戦の影響
 第一次大戦に参戦はしたものの、戦線から遠く離れて戦火の影響を直接受けなかったアメリカ合衆国が、戦後に速度記録挑戦の口火を切ったのは、当然の成り行きである。この大戦では、各国で航空機用に数々のエンジンが開発されたため、戦後の挑戦ではそれらが転用されて、記録を大幅に延ばすことになる。

◆100%アメリカ
大戦後、速度記録を最初に押し上げたのは、パッカード“905”号(図)と米国に帰化したドライバーのラルフ・ド・パーマだった。1919年2月にオーモンド・デイトナ海岸で打ち立てられた、フライング1マイルでの時速149.875マイルのこの新記録は、合衆国で熱狂的に歓迎された。その理由は、これが、クルマの設計と製作が合衆国で行われ、ドライバーが米国人で、記録がアメリカの地で打ち立てられた、という100%アメリカの成果だったからである。しかし、一方向のみの走行であったため、世界記録としては公認されなかった。

図1

◆高級車のエリート
米国の大手自動車会社の一つだったパッカード社は、フォード社が乗用車を440ドルで販売していた当時、最上級顧客層をターゲットに2800ドルの高級車を生産して、業界のエリートとみなされていた。このステータスが速度記録に挑戦させることになった。新記録樹立後の同社の広告では、「それまで長期間君臨していた記録の多くが、ドイツ製のブリッツエンベンツによるものだった」ことを強調して、ヨーロッパのライバルエリートを打ち負かしたことを誇っている。

今回は、第一次大戦後の米国パッカードによる速度記録の樹立を報告した。
次回は、“905”号の詳細とドライバー、この記録に挑戦するクルマとドライバーを紹介する。

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