交通安全コラム

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第229回 地上最高速の争い(63)―記録への米国の挑戦(2)―

前回は、第一次大戦後の米国パッカード“905”号による速度記録の樹立を報告した。
今回は、“905”号の詳細とドライバー、この記録に挑戦するクルマとドライバーを紹介する。

◆リバティーエンジン
米国パッカード“905”号による挑戦で使われたエンジンのベースとなったのは、第一次大戦に合衆国が参戦を決めた直後に、同社の技術者がホテルに缶詰にされて設計したV型12気筒のリバティー航空機用エンジンだった。性能をほどほどに抑え、[出力/重量] が高く、大量生産が容易なもの、という極めて適切な要求に応えた設計で、米国の幾つかの自動車会社が製造を担当し、戦後の1919年まで20478台が生産される成功したエンジンだった。

◆革張りの内装
 挑戦車の“905”はエンジン排気量の905立方インチ(14.82L)から名付けられたもので、これはブリッツエンベンツの1312立方インチより大幅に少ないにもかかわらず、出力は240馬力と、ベンツの200馬力よりはるかに高性能である。このことから、戦争による目覚ましい技術進歩がうかがえる。車体は、レース車用フレームを改造して使用し、白の塗色にシートなどの内装は青色の革張りで、高級車メーカーのクルマに相応しい仕上りだった。重量はベンツより200ポンド軽い3400ポンド(1543kg)である。

◆故障車を押して12位
乗り手のド・パーマ(図1)はイタリア生まれで、1893年に米国に移住し、自転車からオートバイレースに転向し、さらに1909年にはダートトラックの自動車レースで即座に成功を収めるという、優れた素質を持ったドライバーである。1912年のインディアナポリス500マイルレースでは、200周の196周までトップで走り続けたあと、エンジン故障を起こしたメルセデスを、メカニックと二人でフィニッシュラインまで押し続けて12位を勝ち取った。この根性は後世まで語り伝えられている。

図1

◆第二の米国コンビ
このド・パーマの記録に挑戦したクルマはアメリカ製のデューゼンバーグ-スペシャル(図2)で、ドライバーはアメリカ人のトミー・ミルトンである。この新しい米国コンビが、1920年4月に、コースは同じオーモンド・デイトナ海岸で、フライング1マイルで時速156.03マイル、1キロで時速155.342マイルを達成して、ド・パーマの記録を打ち破った。しかし、この記録は、またもや一方向走行だったため、パリの国際機構からは公認されなかった。

図2

今回は、“905”号の詳細とドライバーのド・パーマ、この記録に挑戦するクルマとドライバーを紹介した。
次回は、挑戦車を開発した兄弟の自動車事業化とドライバー・ミルトンの苦難を紹介する。

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