交通安全コラム

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第230回 地上最高速の争い(64)―記録への米国の挑戦(3)―

前回は、パッカード“905”号の記録に挑戦するクルマとドライバーを紹介した。
今回は、挑戦車を開発したデューゼンバーグ兄弟の事業化とドライバーの確執を紹介する。

◆修理屋からテストドライバーへ
 挑戦車を開発したデューゼンバーグは、ドイツの農村からアイオワに移住した兄弟である。二男のフレッドは機械に優れた才能を現し、1896年、三男のオージーと自転車店を開く。競争用自転車を設計し、レースで14年間破られない記録をつくり、ペースメーカーの馬の代りにオートバイを使おうと内燃エンジンを開発する。自動車エンジンの修理がきっかけで、郡の品評会のレースで優勝して自動車会社にテストドライバーとして採用される。

◆インディー500へ
フレッドは、そこで2年間自動車の設計と製造を学び、財政支援を受けて自動車会社を興す。ヘンリー・フォードと同様、成功の早道と考えてレースに参加し、そのエンジンは強力で優れたヒルクライマーとの評価を獲得する。その後曲折はあるが、1913年、兄弟でデューゼンバーグ自動車会社を設立し、1914年にはインディアナポリス500マイルレースにエントリーして10、12位を獲得し、以後多数の勝利を記録する。

◆乗用車生産へ
 第一次大戦開戦後は、各種エンジンを生産し、兄弟で記録挑戦に使うことになるシングルオーバーヘッドカムシャフト直列8気筒エンジンも試作する。兄弟はスローガン「抜群!性能トップ、耐久トップ」を掲げ、1919年には初めての乗用車を設計し、ミネソタの工場を売却して、彼らにとっての聖地であるインディアナポリスに新工場を建設する。ミルトンが記録を樹立する1920年には、念願の乗用車の試作が完了し、翌年から市販を開始する。

◆隻眼のドライバー 
デューゼンバーグ-スペシャルのドライバーのトミー・ミルトン(図)は、ミネソタの裕福な牧場主の息子だが、片目に視力障害があった。しかし、自動車に強い興味を持ち、ダートレースを経てデューゼンバーグチームに入り、徐々に頭角をあらわしトップドライバーの地位を獲得する。開戦で入隊を志願するが視力障害でかなわず、レースを続けて1919年に事故でひどい火傷を負う。これが、チーム内での確執の始まりとなる。

図1

◆飼い犬に手を噛まれる
この療養中に、デューゼンバーグ-スペシャルが完成し、こともあろうに、チーム内で彼の庇護を受けてメカニックからドライバーになったジミー・マーフィーが、テスト走行で時速151マイルを超えるスピードを出して人々を驚かせてしまった。非公式ではあるがド・パーマの記録より速く、新聞の一面を飾った。傷が回復してド・パーマの記録を破ろうとキューバから戻ったミルトンは、これを知って大きなショックを受ける。

今回は、デューゼンバーグ兄弟の事業化と二人のドライバーの確執を紹介した。
次回は、マーフィーに対するミルトンの復権と当時の米国自動車産業の状況を報告する。

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