交通安全コラム
第231回 地上最高速の争い(65)―米国の記録への挑戦(4)―
- Date:
- 2021/04/15
- Author:
- 佐野彰一(元東京電機大学教授)
前回は、デューゼンバーグ兄弟の事業化と二人のドライバーの確執を紹介した。
今回は、マーフィーに対するミルトンの復権と当時の米国自動車産業の状況を報告する。
◆惨めな記録
ミルトンはマーフィーに対する怒りで正気を失い、デイトナ海岸での最初の走行は、マーフィーの記録はおろかド・パーマの記録さえ破ることができない惨めなものだった。
デューゼンバーグ-スペシャルは、2台の排気量300立方インチ(4.9L)の直列8気筒エンジンを並列に搭載しており、連結された二つのクラッチを持っているので、それぞれのエンジンは、性能がまったく同じように調整される必要があった。
◆誰が先生か
ミルトンは気を取り直し、クルマを裸にして、機械的な完全性を徹底的にチェックした。その結果、5マイルまでの距離のアメリカ記録を更新することができて、クルマの手応えをつかみ、クルマに満足して新記録に挑戦し、見事にド・パーマの記録を破ることができた。ミルトンは、誰が先生かを自分の弟子に教えることができて、溜飲が下がったことだろう。
◆大統領リムジン
合衆国の大統領就任式でリムジンが使われるのは、1921年の第29代ハーディングからで、リムジンは、1919年にラルフ・ド・パーマの操縦で新記録を樹立した“905”号と同様、パッカード社製だった。しかし、同社は1930年代の不況で売上が激減し、低価格車製造に転じて延命には成功するが、高級車リーダーとしてのステータスを失ってしまう。業績は徐々に下降線をたどり、第二次大戦後の1956年、その歴史に終止符を打つ。
◆最先端技術
1920年にトミー・ミルトンがド・パーマの記録を打ち破ったデューゼンバーグ-スペシャルを開発した兄弟は、レース活動と自動車製造の会社とを作り、1922年から1927年にかけてインディアナポリス500マイルレースで4回優勝するなど、レースで大きな成功を収める一方、1921年には、直列8気筒エンジンを搭載し、世界初の油圧による4輪ブレーキを備えた、当時の最先端を行く乗用車を発売した。
◆ギャングのお気に入り
1929年~1930年に最多販売台数を記録し、不況をスーパーチャージャー付320馬力車で克服すべく奮闘するが、兄が肺炎で死亡し、会社は、オーバン・コード・デューゼンバーグとなる。最上級のデューゼンバーグモデルは、車体を好みに合わせる注文生産で、ハリウッドスター(図)、政治家、ギャング、貴族、マハラジャのお気に入りとなるが、前衛的デザインと製造上の問題から1937年に生産を終えることになる。
今回は、マーフィーに対するミルトンの復権と当時の米国自動車産業の状況を報告した。
次回は、合衆国の台頭を阻止するために、英国からの新しいクルマの登場を紹介する。