交通安全コラム

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第284回 地上最高速の争い(118)―好敵手対決(1)―

前回は、キャンベルの報告から、新コースでの時速300マイル突破の経緯を紹介した。
今回からは、キャンベル引退後に登場する二人の英国人ライバルのバトルをお伝えする。

◆好敵手対決の始まり
 世界地上最高速記録のリストを見ると、二人の好敵手が交互に競い合って、目覚ましく記録を向上させたことが何度かあったことに気付く。ベルギー人の発明家カミユ・ジェナツィーがフランス人伯爵ガストン・ド・シャスルー・ローバと、パリ郊外の公道で電気自動車を駆って記録を時速39.24マイルから65.79マイルに押し上げたのが最初で、1898年に始まり、翌年の1899年まで交互に3回ずつの新記録を遺している。

◆二度目の好敵手対決
次は30年後、合衆国のデイトナ海岸で、英国人マルコム・キャンベルと同国人ヘンリー・シーグレイブが1000馬力級のクルマで争いを始め、1927年のシーグレイブの時速203.97マイルの記録で始まり、1929年に時速231.44マイルの記録を樹立して引退するまで彼が2回、キャンベルは、出力を増強したクルマで1931年に時速246.09マイルを達成するまで記録を2回更新した。彼は、1935年に引退するまで、さらに4度に亘って自身の記録を塗り替えている。

◆三度目の好敵手対決
キャンベルが時速300マイルを超える新記録を樹立して去った後、その舞台となったボンネビル塩平原で、世界戦争勃発が対決に水をさすまで、英国人同士がライバルとなる記録争が繰り広げられた。最初に舞台に登場するのは、挑戦して破らなかった記録はない、と言われるほど多数のクラス世界記録を所有する人物で、キャプテン・イーストンの愛称で呼ばれるジョージ・イーストンである(図1)。

スライド1

◆レコードマン
1897年生まれのイーストンは、ケンブリッジ大学を卒業後1923年にヒルクライムで自動車競技の経歴をスタートした。グランプリレースで優勝するなど好成績を挙げたが、長距離競技に転じて1キロから5000マイル、1時間から24時間に及ぶおよそ250の記録を樹立した。彼が主として活躍したフランスでは、人々は彼を“レコードマン”と呼んだ。その後、彼は、速度記録挑戦こそ自身の才能が最も発揮できる舞台だと気付き、それに立ち向かった。

◆風の速度号
イーストンは、1931年、わずか750ccのエンジンで時速100マイルを達成した最初の人となった。彼は優れたドライバーであるばかりか、知識豊かな技術者でもあったので、1935年に、クラスA(排気量8L以上)の速度記録を狙って“スピード・オブ・ザ・ウインド”号を開発した(図2)。このクルマは前輪駆動で独立懸架サスペンションという先進的な設計で、出力の大きな余裕と驚異的な信頼性で、最初はフランスで、後にボンネビルで、彼に多くの成功をもたらした。

スライド2

今回は、これまでの好敵手対決と、次の対決の登場人物の一人、イーストンを紹介した。
次回は、イーストンが計画した銀色に輝くモンスターの驚くべき技術内容を紹介する。

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