交通安全コラム

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第294回 地上最高速の争い(128)―記録争いの再開(1)

前回は、第二次大戦のため挫折した、ドイツの速度記録挑戦の内幕をお伝えした。
今回は、大戦前の最後の記録の保持者、ジョン・コッブの記録更新への準備をお伝えする。

◆計画の挫折
ポルシェによって設計されたT80“ブラック・バード”による世界記録挑戦は、当初はボンネビルで行われる計画だった。しかし、ドイツ当局は、記録がドイツで破られるように、アウトバーンの7マイルの直線を使って挑戦することにこだわった。走行は、シュタックによって1940年1月に計画されたが、第二次大戦の勃発で中止された。

◆モータースポーツへの渇望
終戦後、ジョン・コッブが軍務から帰っても、彼のホームグランドだったブルックランズは閉鎖されていてレースができなかった。彼は、記録を打ち立てたレイルトン号は、さらに速く走る能力があると信じていたので、モータースポーツへの渇望のはけ口として、時速400マイルを超える最初の人になるという目標に挑戦することにした。

◆ストール防止の補助軸
挑戦の準備として、クルマはトムソン・テーラーの工場で入念にチェックされた。戦前、クラッチとフライホイールを省略したため多発したギヤチェンジ時のエンジンストールを防ぐため、設計者のレイド・レイルトンは、エンジンが車輪を駆動する軸とは別に、エンジンの回転が車輪の回転より遅くなると、逆に車輪がエンジンを回転する機能を持つ補助軸を追加した(図1)。

スライド1

◆タイヤの開発
ストール防止機構の他は、ほんの僅かな改修が必要なだけだった。エンジンは、製作したネーピアによって点検され、トップのギヤ比が1.13:1から1に高速化された。その他は、より高速でのさらに大きな遠心力に耐える、新しいダンロップタイヤの設計であった。これは、実際の試験では目標以上の大きな荷重に耐えることができた。

◆スポンサーシップ
今回は、この挑戦の主要な支援をモービルオイル社が提供し、見返りに、宣伝のために、車名を“レイルトン‐モービル スペシアル”に替えた(図2)。このようなスポンサーシップは、現在ではモータースポーツのほとんどの分野で一般的に行われ、米国ではすでに戦前から行われていたが、英国では、製造業者が表に出るスポンサーシップのはしりとなった。

スライド2

◆ひどい路面
1947年8月、チームがボンネビルに到着した時、塩平原はひどい状態だった。普通は、冬から春の洪水が蒸発して、スムーズで固い表面が現れる。しかし、その年は、水がなくなった表面に、深さ8cm程の穴が、約1m間隔で残っていた。コースの管理当局は穴を埋め、盛り上がった峰をつなぐ網目を滑らかに削った。

今回は、大戦前の最後の記録の保持者、ジョン・コッブの記録更新への準備をお伝えした。
次回は、タイヤの欠乏、車体のトラブルを克服しての記録挑戦の経過を報告する。

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