交通安全コラム

交通安全コラム

第297回 地上最高速の争い(131)―ジェット推進車の登場(1)

前回は、コップの新記録樹立と彼亡き後のボンネビルでの記録挑戦の状況を見ていった。
今回は、乏しい資金で世界記録に挑戦し、落命した勇敢な一人のアメリカ人を紹介する。

◆ガレージメカニック
挑戦の準備を進めていると噂されているドナルド・キャンベルがジョン・コッブの記録を破る前に、記録を先取りしようと試みた最初のアメリカ人は、エイソル・グラハムだった。彼は、9年間にわたる結婚生活も含めて、おとなの余暇として、住まいの裏のガレージで競技車を製作することに多大の時間を費やしていた。

◆美しいとは言い難い
彼が“シティー・オブ・ソルトレイク”と名付けたクルマには、資金が乏しかったので、第二次大戦の余剰品のアリソン航空用V12気筒3000馬力エンジンを選択した。それを後ろに置き、前後車軸は軽合金のチャンネルフレームにボルトで固定し、後輪のみの駆動とした。ボデーは、爆撃機B-47の補助燃料タンクを分割してシャシに被せ、間をアルミ板でつないだもので、美しいとは言い難いものだった(図1)。

スライド1

◆走行不許可
1959年、彼がボンネビルに現れた時、オフィシャルは、クルマが安全ではないという理由で走行を許さなかった。しかし、そのあとで戻って来たときには、時速344.761マイルを記録した。時速300マイルからの加速でホイールスピンをするパワーと、それでもラインを外れない安定性で、観衆に強い印象を与えた。

◆最後の笑顔
1960年8月、ライバルたちが見守る中、彼は、妻のゼルディンに笑顔を見せ、新記録に向かって、二輪駆動にもかかわらず驚くべき加速で発進した。クルマがコースを外れた時は時速300マイルを超えていた。クルマは、突然横を向いて尾部が分解し、飛び上がり、裏返しで着地、何度も飛び上がりながら突進して潰れてスクラップになった(図2)。救護隊が駆け付けた時は、グラハムは絶命していた。ソルトレイク市生まれの彼は36歳だった。

スライド2

◆初のジェット推進車
ロスアンゼルスの医師、ネイサン・オスティッチが、世界初のジェット推進車を持ち出した。彼は、クルマがFIAの車両規定、「二つ以上の車輪で駆動すること」を満たしていないので、達成した速度は公式には承認されないことを知っていた。しかし、彼はそれを気に懸けなかった。ただ、誰よりも速く走りたかったのだ。

◆空飛ぶ使者の杖
オスティッチのクルマは“フライング・キャデューシアス(空飛ぶ使者の杖)”号と名付けられていた。「使者の杖」とは、頂部に翼がある2匹の蛇が巻きついた杖で、医術・商業の象徴である。彼が重視したのは最大出力で、エンジンはボーイングB36爆撃機の余剰品のターボジェットだった(図3)。

スライド3

今回は、乏しい資金で世界記録に挑戦し、落命した勇敢な一人のアメリカ人を紹介した。
次回は、世界初のジェット推進車による挑戦失敗と、続く挑戦者の決意の経緯を紹介する。

<前の画面へ戻る

Page Top

SSL GlobalSign Site Seal