交通安全コラム

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第298回 地上最高速の争い(132)―ジェット推進車の登場(2)

前回は、乏しい資金で世界記録に挑戦し、落命した勇敢な一人のアメリカ人を紹介した。
今回は、米国人挑戦者の二番手として、世界初のジェット推進車を携えて登場した医師の失意のリタイヤーと、期待の星であるトムソンが挑戦を決意するまでの経緯を紹介する。

◆覆いの無い車輪
医師の空飛ぶ使者の杖”号の車体は、尖った先端を持つ太いシリンダー状で、円形と角断面の鋼管のフレームにアルミ合金パネルを張り、ドライバーは、前面と側面の窓に囲まれて、前輪の直前に座る。流線型化にはあまり注意が払われておらず、独立懸架の車輪には覆いがなく、ファイアストン製タイヤには、乗用車タイヤの10倍近い高圧でガスが充填されていた(図)。

スライド1

◆初期トラブル
ボンネビルでの彼の初期の走行で、エンジンの最大回転数90%以上でガラス繊維製の空気取り入れダクトが圧力で潰れ、強度が不十分であることが判明した。ダクトを再設計して走行したところ、時速250マイル近くになるとクルマが横にそれた。原因は、前輪ディスクブレーキの引きずりと考えられ、その対策が行われた。

◆失意のリタイヤー
オスティッチは、エイソル・グラハムの不幸な出来事をものともせず、事故の5日後、記録挑戦の走行を行った。エンジン回転数が92%を超えたところで、サスペンションの設計が塩の表面の激しい凹凸に対応できず、車輪に激しい振動が発生した。ハンドルが荒々しく振られ、ステアリングが壊れた。巨大な昆虫のようなクルマは、ブレーキを助けるパラシュートのお蔭で無事に止まることはできたが、がっかりした医師は、これで挑戦を断念した。

◆期待の星
次に舞台に登場するのは、アメリカの人たちの期待の星、カリフォルニアのレーシングドライバーのミッキー・トムソンである。彼は、1958年、ボンネビルで、センセーショナルな時速294マイルを出して、アメリカの熱狂的なファンを驚かせた。これは、アメリカ製のクルマのそれまでの記録より時速28マイルも速かった。しかも、彼のクルマは800馬力足らずの加速競技用ドラグスターだった。

◆チャレンジャー1
ドラグスターがあと時速100マイル速く走れれば、世界記録に届くのだから、もし、特製のクルマをつくれば、米国の挑戦者の前に立ちはだかる英国人ジョン・コッブの記録を打ち破り、覇権を握ることが可能だろう、とトムソンは考えた。そして、自らが、合衆国のためにそれを行う決意を固め、そのクルマを“チャレンジャー1”号と命名した。

今回は、米国人挑戦者の二番手として、世界初のジェット推進車を携えて登場した医師の失意のリタイヤーと、期待の星であるトムソンが挑戦を決意するまでの経緯を紹介した。
次回は、トムソンのチャレンジャー1の開発と記録挑戦の経過をお伝えする。

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