交通安全コラム
第301回 地上最高速の争い(135)―英国からの挑戦
- Date:
- 2024/03/15
- Author:
- 佐野彰一(元東京電機大学教授)
前回は、トムソンの、チャレンジャー1とボンネビルでの挑戦の経過を紹介した。
今回は、米国人の挑戦に参入する英国人キャンベルのクルマとトムソンの迎撃を紹介する。
◆ハニカムサンドイッチ製フレーム
キャンベルのクルマのフレームの主要部材は、軽合金板で挟んだアルミハニカムサンドイッチパネルである(図1)。風洞実験が反映された流線型のボデーシェルがすべてを包み込んでいる。空気は、一つのノーズの取り入れ口からドライバーの両脇で分かれるダクトを通ってエンジンへ入る。テールフィンは取り付けられていないが、直径52インチの車輪のカバーが方向安定性をつくり出す。四輪すべてが独立懸架である。

◆迎撃するアメリカ勢
1960年7月21日、自国のグッドウッドでの初走行で、メカニックはタイヤの交換と燃料注入の練習も行い(図2)、英国チームは8月末にボンネビルに到着した。これを迎え撃つアメリカ勢は、すでに紹介したように、航空用レシプロエンジン車で挑戦したエイソル・グラハムは事故死し、世界初のジェット推進車のネイサン・オスティッチはトラブルで挑戦を断念していた。

◆トムソンへの期待
この結果、ミッキー・トムソンがすべてのアメリカ人の期待を一身に背負うことになった。彼のチャレンジャー1は、4基のエンジンそれぞれにスーパーチャージャーを追加して合計出力を1000馬力ほど高め、前輪をカバーで覆って流線型化を改善していた。しかし、劣勢は否めず、トムソンは、ドナルドが記録を達成する前に、速やかに行動しなければならなかった。
◆トムソンの不運
トムソンのボンネビルでの3週間は、すべてがうまく行かなかった。風と雨で走行できない日が続き、天候が回復すると、クルマの機械的な問題が明らかになって走行が遅れた。走行が可能になっても路面の状態は悪く、時速300マイル以上で走行すると不安定になって、記録挑戦が妨げられた。ついに、彼は、ドナルド・キャンベルの予備走行を見る羽目になった。
◆新ブルーバード初走行
キャンベルは、1960年9月4日のコースでの初日に、トムソンのチャレンジャー1での走行を観察した。翌日の午後、ブルーバードのボンネビルでの最初の走行で、キャンベルは、行きは時速120マイル、帰りには時速150マイルまで増速した。続く数日間、ブルーバードは、近隣の米空軍格納庫で、ステアリングギヤ比を低いものに替えられ、エンジンの幾つかの小さな問題が対策された。
今回は、米国人達の挑戦に参入する英国人キャンベルのクルマとトムソンの迎撃を紹介した。
次回は、トムソンの奮闘と、キャンベルの挑戦の経過を紹介する