交通安全コラム

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第305回 地上最高速の争い(139)― 一つ目の巨人

前回は、ジェットクラスの導入と、ピストン車でのトムソン最後の挑戦と断念を紹介した。
今回は、米国勢の挑戦者の一人、アート・アルフォンズの経歴とクルマ造りを紹介する。

◆“空飛ぶ使者の杖”号の再登場
次に登場したのは、1960年にステアリングとエアダクトの問題で挑戦を断念したジェット推進の“空飛ぶ使者の杖”号のアメリカ人ドクター、ネイサン・オスティッチだった(図1)。彼は、8月6日に時速206マイルに達し、次第に速度を上げ、8日には12回目の走行で、時速324マイルに到達した。

スライド1

◆エンジン回転100%で横すべり
しかし、8月9日の13回目の走行で、エンジン回転数を100%にして時速331マイルに達した直後、右に向きを変え横すべりした。ドクターは、スロットルを戻し、パラシュートを開いた。 クルマはスピンを始めて左の前輪がもぎ取られたが、パラシュートがスピンを止め、クルマはすべっただけで停止した。クルマのダメージはわずかで、ドクター自身にも負傷はなかったが、このクラッシュが彼の1962年の挑戦に終止符を打った。

◆流血の沖縄戦
“サイクロプス(一つ目の巨人)”号と名付けたアフターバーナー付ジェット推進車を持ちこんだのは、アート・アルフォンズだった。彼は、のちに目覚ましい成果を挙げるので、ここで経歴を紹介しておきたい。彼は、1926年のオハイオ生まれで、天賦の器用さを持っていた。11歳でクルマを分解し、高校時代に溶接と航空メカニックの授業を受けた。17歳で海軍に入ってディーゼルエンジンのメカニックの教育を受け、流血の沖縄戦では上陸用舟艇の操舵手を務めた。

◆ドラッグレースのスター
1954年、28歳で、たまたまドラッグレースを見て、その虜になり、兄のウォルトとジャンクパーツから最初のドラグスターをすぐに造り上げ、あっさり時速85マイルを記録した。1956年にウォルトが手を引いたので、彼は子供時代の友人のエド・スナイダーと高性能のクルマの製作を続け、間もなくドラッグレーサーのスターの地位に登った。

◆制動用パラシュートの改良
1959年、彼は制動用パラシュートの改良で、ドラッグレース界に恒久的な貢献をした。ムスタング戦闘機のロールスロイスV12気筒エンジンを載せた時速180マイルに達するドラッグスターの成功で、英雄視していたジョン・コッブの世界記録に挑戦することにした。彼は1960年の夏までに、記録挑戦用のクルマ“アントイーター(蟻食い)”号を完成する(図2)。これは、世界記録を維持し続けるジョン・コッブの記録達成車“レイルトン‐スペシアル”の影響を大きく受け、似ていた。

スライド2

今回は、のちに大活躍する挑戦者の一人、アート・アルフォンズの経歴とクルマ造りを紹介した。
次回は、アート・アルフォンズのジェットエンジン推進車と、新たなアメリカ勢の挑戦の模様を報告する。

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