交通安全コラム
ガソリン自動車第一号(1)―世間の評判と夫人の内助―
- Date:
- 2016/06/30
- Author:
- 佐野彰一(元東京電機大学教授)
前回は、ベンツが完成したガソリン自動車のエンジンと車体の詳細を紹介した。
今回は、このクルマの試験走行と、世間の評判、熟成までのベンツ夫人の献身を紹介する。
◆公道走行
1885年の秋には、このクルマは公道を時速12キロで1キロは走れるようになり、1886年には、夏のあいだマンハイムの街中を走行した。しかし、故障で停車すると人々が集まってきて、さまざまな批判をした。
◆馬車で十分
「こんな頼りなくって貧相でうるさい音のする箱に、いったいどうすれば乗る気になれるものかね。世の中には馬が十分にいて、そのうえまことに上品な馬車も大小さまざまあるというのに」と言う人もいた。(カール・ベンツ著、藤川芳朗訳「自動車と私 カール・ベンツ自伝」草思社)
◆交通妨害
さらに、彼のクルマは、警察からは交通妨害とみなされたり、騒音が馬をのけぞって駆けださせたり、悪魔が餌食を探しに来たと思いこんだ若い婦人に発作を起こさせた、と伝えられている。
◆夜間走行
こんな状態の中で、町を大きく取り巻く公道を2周完走することを目標に、人目を避けるため夕方暗くなってから走行が続けられた。その努力で、クルマは試作品から次第に完成度を高めていき、1886年11月には特許も取得した。この成果の陰には、長期にわたって夫を支えた、ベンツ夫人の内助があったことは特筆に値する。
◆夫人の持参金
ベンツは14年前に27歳で23歳のベルタと結婚し、ある協力者と工場を開いたが、それが信頼できない人物で会社を危うくした。ベンツは、会社の存続を図るため彼の株を買い取ったが、その資金はベルタの持参金だった。
◆修理も運転も
彼女は、初めての試運転から夫と同乗し、エンジンの押し掛けや発進時の後押しは彼女の役割だった。初めの頃には、故障したクルマを押して帰るためにも彼女は不可欠な存在で、修理も運転もできるようになった。小さな発電機が取り付けられたミシンを毎晩遅くまで踏み続けて、次のテスト走行に備えて点火装置の電池に充電するのも彼女の役割だった。
◆息子たちの発案
ベルタ夫人は1888年の夏に、夫に無断で15歳と13歳の息子と、親戚までの往復180キロ の長距離ドライブを敢行した(図)。これは息子達の発案で、「父は絶対に許さないから母に頼もう」、「母は父より勇敢だから、行ってくれるかもしれない」と考えてのことだった。
今回は、一号ベンツ車の公道走行と世間の評判、仕上げまでの夫人の内助を紹介した。
次回は、世界初のツーリングとなる夫人と息子たちの冒険旅行を紹介しよう。