交通安全コラム
自動車レースの発展(4)―空気入りタイヤの挑戦―
- Date:
- 2016/12/15
- Author:
- 佐野彰一(元東京電機大学教授)
前回は、レースのヒーローだったルバソールと共同経営者パナールの業績を紹介した。
今回は、空気入りタイヤで参加したミシェラン兄弟の奮闘を紹介する。
◆空気入りタイヤの挑戦
パリ-ボルドーのレースでは、史上はじめて、ミシュラン兄弟の空気入りタイヤを装着したクルマが登場した(第161回図1)。クルマは、プジョーの車体を改造し、4馬力のダイムラーエンジンを積んだ特製で、重量は1トンを超えていた。そのタイヤは、直径は大きいが、断面の幅は6.5センチと細く、そのため空気圧は、ダンプカー並みの7気圧と極めて高いものだった。

◆“稲妻“の意味
クルマは稲妻号と名付けられたが、これは、稲妻のように速いことにちなむものではなく、ハンドルがふらついてまっすぐに走らず、ジグザグに走ることによるものだったと言われている。こんな事情からか、ドライバーからは敬遠された。
◆スペアチューブ22本?
それでも、空気入りタイヤの利点を世の中に理解させたいと、自分たちが運転してレースに参加することにした。彼らは100回近くのパンクに悩まされたが、粘り強い頑張りでかろうじて完走したと伝えられている。しかし、22本のスペアチューブを使い果たし途中で棄権したという説もある。
◆空気入りタイヤは使えない
このレースで、彼らは時速61キロの高速を出すことができた、とも伝えられている。しかし、トップでゴールインしたドライバーのルバソールが「空気入りタイヤは自動車では使えないだろう」と言ったのに対し、ミシュラン兄弟は、自信満々「10年もすればみんな空気入りタイヤになる」と豪語したと伝えられている。
◆5年かからず実用化!
実際、翌1896年には三輪車ではあるが、初の空気入りタイヤを付けた乗用車が生産されており(図)、その年のレースには、多くのクルマが空気入りタイヤで参加したと伝えられている。しかし、兄弟の予言は見事に外れた。多くのクルマが採用するようになるまでに、5年とかからなかったからだ。

◆二大自動車技術
自動車を広く普及させたのは、高い信頼性設計技術と、コストを低減した大量生産技術であるが、ガソリンエンジンと空気入りタイヤの発明が不可欠であった。しかし、どんなに高出力のエンジンを搭載しても、空転せずにその力を路面に伝える高性能なタイヤがなければ、エンジンの性能は生かしきれない。
今回は、空気入りタイヤでレースに参加したミシェラン兄弟の努力と予言を紹介した。
次回は、空気入りタイヤの誕生の経過とミシェラン兄弟の経歴を紹介する。